「厳しさ」を建前に攻撃してくる人間の正体(法で裁けぬ極悪人)

言うまでもないが、音楽の道・・・芸の道は厳しい。その厳しさとは世間の目であり、経済面での壁であったり、上達のための鍛錬の苦しさそのものであったりする。

その厳しさの中に「お前のため」「育てるため」という体の良い言葉を借りて攻撃を加えてくる極悪人が存在する。彼らは所謂「先輩」だとか「師匠」だとか「先生」だとかいう存在である。「教育」「しつけ」という名目で無抵抗の子供を虐待する犯罪者と本質的に同様の存在である。

 

芸の道を進むには、先ず誰と関わるかが重要である。切磋琢磨する仲間、指導を仰ぐ師匠として誰を選択するかで運命は決まると言っても良い。

「厳しさ」は勿論必要である。但し、「教育」という言葉に胡坐をかき、立場・上下関係を利用して君を叩き潰そうとする極悪人が周囲に紛れていることを忘れないでもらいたい。世界は君が思うよりも遥かに悪意で満ちているのだ。

 

私は以前、大勢の前で指導と称して若者を痛ぶるベテランミュージシャン(極悪人)に遭遇したことがある。便宜上ミュージシャンとは記したが、別に何か実績がある訳ではない。昔、少し人気があったバンドに在籍していたといういい歳してチンピラを卒業できないオッサンである。

不出来な点につけ込んで若者に罵詈雑言を浴びせているクズ野郎だ。そもそも不出来な点というのもどこがどう不出来なのか曖昧であるし、それを指摘しようものなら発狂してキレだす始末。これでは指導される側は何をどうしたらいいのか、さっぱり分かるまい。質問すれば、質問への回答ではなく「お前には才能が無くて頭が悪いからそんなことも分からないんだ」と更なる罵詈雑言を浴びせる。これのどこが教則なのか?ただのイジメ、理不尽な吊し上げではないか。

そして周りもそれを一切止めない。(というか恐ろしくて止められない)

極悪人曰く「これで俺らは育ってきた。崖から突き落として這い上がるのが成長。こいつは根性がないゆとりだから鍛えてやっている」「俺らは体育会系」とのことらしい。

 

要するにこの極悪人は師匠面して教則など一切持っていないということである。

年齢という覆せない上下関係を悪用し、理不尽をゴリ押しして立場の下の者の罪悪感に付け込む。

これは自身の気まぐれで立場の弱いものを踏みつけにする吐き気を催す程の邪悪であるし、しかもやる側は善意のつもりという、「自分が悪だと気付いていない最もドス黒い悪」である。

 

音楽の世界ではこうした事例は未だ数多くある。スポーツの世界ではこのような指導者はあっという間に淘汰されるし、特に野球界では淘汰することで大きくレベルを上げたといっていい。プロ野球のレベルは根性論精神論がまかり通っていた昭和の時代から大きく上がったことは誰もが知るところだ。

残念ながら前時代的なアホ(極悪人)を排除できない音楽業界はスポーツに文化として大きく後れをとっていることは認めるべきである。

コロナ禍でもオリンピックは開催されたが、ロックフェスは中止となったのだ。これは一つの答えであろう。

 

少々話がそれたが、ここで上記の極悪人の正体について私の考えを述べる。

まぁ、考えというほどのことでもない。ただ単に奴らは溢れ出る支配欲を抑えようともせずに自分の立場に酔っているだけのクズ野郎である。だって極悪人だもの。

 

教則とは到底呼べないような滅茶苦茶な教えでも才能のある奴はちゃんと開花する。(これはかつてのスポーツ界と同様である)

但し、相手(若者)側に才能があるかは分からない。

 

才能があれば、偉大なミュージシャンの師匠として…というよりは「下積み時代に世話してやった」と恩に着せ、残念ながら才能がなかった場合は壊れるまで好き放題にサンドバッグにして支配欲を満たし、自分の(年功序列による)強さに浸る。

それだけである。相手が才能があろうがなかろうが極悪人が得をするのである。

才能があって開花した場合も、単にそれは才能があっただけの話で、別に極悪人共の(滅茶苦茶な)教則のお陰ではないのだ。

そもそもそれ程の才能の持ち主ならば、このような極悪人とは関わることなく世に出ていくことだろうから、多くの場合サンドバッグにされて心を壊されるという結末であろう。

これが犯罪以外の何だというのか。

 

残酷なことに、上記のような極悪人を排除することは今の音楽業界では難しいだろう。自衛のためにも関わる人間を慎重に吟味し、選んでいかなくてはなるまい。

先ずなによりも身の安全が保たれなくては成長も何も無いのである。

音楽シーンの変革なるか

個人的に注目しているブログがある。

野島光太郎という人物による、楽器業界やそれに関わる楽器講師達について鋭い考察を辛口気味に述べるブログであり、現在ちょっとした話題となっている。

ameblo.jp

 

文章もよく練られており、業界の関係者かどうかまでは正直分からないが、非常に頭の切れる人物であることは間違いないだろう。

私が注目している点は、野島光太郎氏はその正体が誰であれ、覆面・無名の存在(失礼)であるにも関わらず影響力を持ち始めているという点だ。

これは非常に革命的なことである。

 

歴史とは勝者が作るものだ。

インディーズ・アマチュア音楽シーン(以下音楽シーン)において、勝者とは何か。

異論はあるだろうが、

・年齢が上(年配者は年功序列が大好き、何故なら自分達が体よく威張れるからね)

かつて人気があった、人気のあったバンドに在籍してた

・喧嘩が強い(ヤンキーの武勇伝)

・有名人(プロ)との繋がりがあり、イベント成功などの実績がある

といったところだろうか。

いくつかは「今時何を言っているのか」と笑われそうだが、音楽シーンは未だ昭和脳のチンピラ老害がウジャウジャ蠢く無法地帯。令和の常識で考えてはいけない。

このような世界で、実質的に覆面である野島氏が影響力を多少なりとも持つ、ということは音楽シーンにちょっとした革命をもたらすのではないかと考えている。

一部の者(独裁者)に牛耳られている音楽シーンで、戦略的に動く事で、まだ実績に乏しい若者や先述した勝者の定義に当て嵌まらない者でも影響を与えることが可能になる。

これは時代に取り残された業界の健全化への第一歩である。


一般社会では勿論、スポーツ等の他の業界では当たり前の進化・発展も、音楽シーンでは起こることがなかった。(厳密に言えば起きてはいたのだろけど、余りに小規模)

その結果、音楽シーンは時代にすっかり取り残されてしまった。(コロナ禍でオリンピックは開催されたが、ロックフェスは中止されたのは良い例である)

上記に加えて、少なくとも日本社会という枠組み内では、経済面でもスポーツに遅れをとっていることは明白であろう。資本主義が採用されている日本において、経済効果で遅れをとっている芸術分野が優先されることはない。これはスポーツにも言えることだが、本質的にはスポーツも音楽も、「平和な時に観るどーでもいいもの」なのである。公共交通機関や電気ガスなどの様に、無くなって困る類のものでは無いのだ。

だからこそ、経済効果が見込めないものは社会から切り捨てられるのである。コロナ禍という非常事態では当たり前のことだ。


この様な有様でなお、税金がある程度投入され、社会の中で音楽シーン自体の生存が許されていることをありがたく思わねばならない。